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GNU宣言(GNU Manifesto)(以下参照)は、GNUプロジェクトの初期の頃に、 Richard Stallmanが参加とサポートを求めるために書いたものである。 当初2〜3年間は、開発について説明するために参考として用いつつ更新していたが、 現在では、人々がよく目にするので変更しないでおくことが最善であると考えている。その時以来、我々は、いくつかの表現をわかりやすくしたつもりだが よく誤解を招く点があることがわかった。 そこで、そのような点を明確にするべく、1993年に脚注として追記した。
現在配布可能なGNUソフトウェアに関する最新情報は、 GNU's Bulletin([訳注]日本語版であれば「GNUダイジェスト」)の最新号を ご覧いただきたい。 ここに引用するには情報量が多すぎるので。
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GNUとはGnu's Not Unixの略であり、誰もがフリーに使えるよう(67)、 私が今作成しているUnixと完全互換のソフトウェア・システムの名称である。 何人ものプログラマが私を手伝ってくれている。 時間やお金、プログラム、機器の寄付を大いに必要としている。
既に我々のもとには、エディタ・コマンド記述用のLispを備えている Emacsというテキスト・エディタや、ソース・レベル・デバッガ、 yacc互換の構文解析部生成ツール、リンカ、その他約35個のユーティリティがある。 シェル(コマンド・インタープリタ)はほぼ完成している。 移植性の良い新しい最適化Cコンパイラは自分自身をコンパイルできるようになり、 今年中にはリリースできるだろう。 初期段階のカーネルはあるが、Unixをエミュレートするためには もっと多くの機能が必要である。 カーネルとコンパイラが完成すれば、 プログラム開発にふさわしいGNUシステムを配布できるだろう。 テキスト処理にはTeXを採用するつもりだが、nroff関連の作業も進行中である。 また、フリーで移植性の良いX Window Systemも採用する。 そのあとは、移植性の良いCommon Lispや、Empireゲーム、スプレッドシート、 その他数多くのものを、オンライン・ドキュメントと共に追加していく。 最終的には、Unixシステムに標準で付いている有用なツール全てに加えて、 さらにはそれ以上のものを提供したいと考えている。
GNUは、Unixのプログラムを実行できるようにするつもりだが、 Unixとは同一のものにはならない。 他のオペレーティング・システムでの我々の経験を基に、 より使いやすくなるよう、全面的に改良していくからである。 特に、長いファイル名の使用やファイルのバージョン番号、 耐クラッシュ性に優れたファイル・システム、 ファイル名の補完機能([訳注]ファイル名を途中まで指定しただけで そのあとはシステムが完全なファイル名を追加してくれる機能)、 端末に依存しない表示のサポート、おそらく最終的には、 いくつかのLispプログラムと通常のUnixプログラムが1つの画面を 共有できるようなLispベースのウィンドウ・システムを作る予定である。 システム・プログラミング言語としては、C言語とLispの両方が使用可能になるだろう。 通信用には、UUCP、MIT Chaosnet、Internetの各プロトコルを サポートしようと考えている。
GNUでは、最初は68000/16000([訳注]モトローラ68000とナショナル・ セミコンダクタの16000)クラスの仮想記憶を備えたマシンを対象とする。 というのは、GNUを最も実行しやすいマシンだからである。 もっと能力の小さなマシン上でGNUを動作させるための努力は、 そのマシン上で使いたい人の手に委ねることにする。
とんでもない誤解を避けるために、このプロジェクトの名称としての 「GNU」の場合は、「G」を発音していただきたい。 ([訳注]もともと普通名詞のGnuはヌーという動物であり、 その発音を採用するとGNU projectはヌー・プロジェクトになり new projectと間違われる可能性もある。)
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もし私の好きなプログラムを他の人も好きであれば、 私はその人とプログラムを分かち合わなくてはならない、 という黄金律([訳注]自分の欲することは他の人にも為すという考え方)を考案した。 ソフトウェア販売会社は、ユーザ1人1人に他人と共有しない契約を させることによって、ユーザを分離し支配しようとしている。 そのような方法で他のユーザとの連帯意識を壊すことは私は嫌である。 機密保持契約やソフトウェア・ライセンス契約へのサインは良心からできない。 何年もの間、私はそういった傾向やその他の冷遇に抵抗するために、 AIラボ内で活動してきたが、最後にはその傾向や冷遇は度を越していった。 私に対してAIラボが行なった事は私の意志に反するので、 そこに留まることができなくなった。
信念を曲げることなくコンピュータを使い続けるために、 フリーでないソフトウェアがなくてもうまくやっていけるような フリー・ソフトウェアのしっかりした団体を組織することを決意した。 私がGNUを配布することをMITが合法的に阻止するのを拒否するために、 私はAIラボを辞職した。
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Unixは私の理想とするシステムではないが、それほど悪いシステムでもない。 Unixの基本的な機能は良いものなので、それらを生かしつつ、 Unixに欠けているものを補っていけるだろうと考えている。 また、Unix互換のシステムであれば、 GNUを採用する他の多くの人々にとっても有用であろう。
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GNUはパブリック・ドメインには置かない。 それにより、誰もがGNUを修正して再配布でき、 配布者が再配布することを禁止されることもない。 つまり、独占的な修正はできないのである。 私は、あらゆるバージョンのGNU ([訳注]誰でもソース・コードをアクセスできるという意味で)が 確実にフリーであり続けて欲しいのである。
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私は、他の数多くのプログラマがGNUに熱狂し、 そして協力したがっていることを知った。
多くのプログラマが、システム・ソフトウェアの営利化に不満を抱いている。 その営利化とは、プログラマに金儲けをさせる代わりに、 他の一般のプログラマを仲間ではなく競争相手として見るよう仕向けるからである。 プログラマ間の友情を示す基本的な行為は、プログラムの共有である。 現在の典型的な市場の取り決めは、 プログラマが他のプログラマを友人として接することを根本的に禁じてしまっている。 ソフトウェアの購入者は、友情をとるか、法律に従うかを選択しなくてはならない。 当然、友情のほうが大切であると考える人のほうが多いだろう。 しかし、法律に従うべきであると考える人のなかには、 このようなことが簡単に選択できない人が多い。 そういう人は人の誠意を信じない人間になっており、 プログラミングは単なる金儲けの一手段でしかないと考えているからである。
独占的なプログラムではなくGNUに関する作業を行ない、GNUを使っていれば、 誰に対しても排斥的ではなくなり法を守ることもできる。 さらに、GNUは共有という点において、激励するための一例となり、 人々が我々に参加すべく結集するための旗印となる。 これにより、もし我々がフリーでないソフトウェアを使っていては 得られないある種の和の感情を抱くことができる。 私が対話したプログラマのうちの約半数が、 これはお金には換えられない大切な幸福であると言っている。
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私は、コンピュータ・メーカにはマシンとお金の寄付を求めている。 個人に対してはプログラムと労働の寄付を求めている。
マシンの寄付を受けた場合は、その見返りの1つとして、 GNUが近いうちにそのマシン上で動作するようになるだろう。 マシンは完成していてシステムが使える状態であり、 住宅区域で使用可能で、特殊な冷却や電力を必要としないものでなくてはならない。
私は非常に多くのプログラマがGNUのためにパートタイムで作業する 熱意があることを知った。 ほとんどのプロジェクトでは、 そういったパートタイムでの分散した作業をまとめていくことは非常に困難だろう。 しかし、Unixを置き換えるというこの特定の作業に関しては、そのような問題はない。 完全なUnixシステムには数百ものユーティリティ・プログラムがあり、 その1つ1つには別個にドキュメントが付いている。 たいていのインタフェース仕様は、Unixとの互換性の観点から決定されている。 プログラマ各人が単一のUnixユーティリティと互換の代替品を作成できれば、 そのようなユーティリティをひとまとめにしても正しく動作するはずである。 マーフィーの例で言えば、いくつか予期せぬ問題が生じたとしても、 これらの構成要素をまとめることは可能な作業であろう。 (カーネル作業には、より緊密なコミュニケーションが必要なので、 少人数で密接なグループでの作業となる。)
お金の寄付を受けた場合は、フルタイムかパートタイムで2〜3人を雇えるだろう。 給料はプログラマの標準収入ほど高くはないが、お金を稼ぐことと同じように 共同体精神を築くことは重要だと考えている人を私は捜している。 私は、この給料とは、プログラマが別の方法で生計を立てなくても、 GNU作業に全力投球できるようにするための一手段としてとらえている。
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いったんGNUが作成されれば、誰もが良質のシステム・ソフトウェアを無料で 入手できるようになる。(68)
これは、Unixライセンスの価格を誰もが節約できることだけではなく 多くのことを意味する。 つまり、非常に無駄となるシステム・プログラミングの重複を避けることができる。 代わりに、その労力は現在の技術水準の進歩に向けることができる。
完全なシステム・ソースは誰に対しても配布可能になる。 そのため、システムに変更を施さなくてはならないユーザは、 自分でいつでも自由にそれを行なったり、あるいは、 自分の代わりにそれを行なってくれるプログラマや企業を 雇うことができるようになる。 ユーザはもはや、ソース・コードを所有するプログラマや企業のなすがままに なることはなく、変更を施すことに関しては独立した存在でいられる。
大学側は、学生にシステム・コードを学習し、改良するよう奨めることにより、 はるかに良い教育環境の提供が可能になる。 ハーバード大学のコンピュータ研究所では、 ソース・コードを公開して見れないようなプログラムは一切、 システムにインストールしないという方針が習慣であり、 特定のプログラムをインストールすることを実際に拒否することを支持した。 このことに私は非常に勇気づけられた。
最後に、システム・ソフトウェアを誰が所有しているのかを、 それを使ってやっていいことといけないことを考慮することの オーバーヘッドが解消されるだろう。
人々にプログラムの使用料を支払わせる契約(複製のライセンスを含む)は 常に、人がいくら(つまり、どのプログラムに)支払わなくてはならないかを 理解するのに欠くことのできない厄介な機構を通じて、 社会は多大なコストを被っている。 そして、警察国家でもなければ、 そのような機構に全ての人を従わせることはできない。 例えば、多大なコストをかけて空気を製造しなくてはならない 宇宙ステーションのことを考えてみよう。 空気1リットルごとの息継ぎに課金すれば公平かもしれないが、 たとえ皆が空気料金を支払う余裕があったとしても、 そのために一日中メータ付きの空気マスクを付けるとなれば耐え難いことである。 まして、マスクを外したかどうかをTVカメラが至る所で見張っているなどというのは、 全くとんでもないことである。 それよりは、料金を頭割りにした税金で空気工場を維持して、 マスクを外すほうがましである。
プログラムの一部または全てを複写することは、 プログラマにとって呼吸するのと同じくらい自然なことであり生産的なものである。 だから、プログラムはフリーであるべきである。
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『プログラムがフリーであれば誰もそれを使わないだろう。 なぜならば、無料ということは、サポートを当てにできないからである。』『サポートを提供するために料金をプログラムに課す必要がある。』
人々が、サービスのない無料のGNUよりも、 サービス付きの有料のGNUのほうに支払うというのであれば、 GNUを無料で入手した人々に対して、 サービスだけを提供する企業は利益を得て当然である。(69)
本当のプログラミング作業を行なうサポートと、 単なる支援とは区別すべきである。 前者は、ソフトウェア業者からのサポートを当てにできない種類のものである。 もしあなたの問題が多くの人々の問題になっていなかった場合には、 ソフトウェア業者は邪魔しないでほしいと言うだろう。
あなたのビジネスがサポートに頼らざるをえない場合は、 必要なソース・コードとツールを全て自分で抱えるしかない。 そうすれば、あなたの問題点を直してもらうための人を雇うことができる。 人に翻弄されることはない。 Unixを使う場合、ソース・コードが高価なので、 ほとんどのビジネスではこのようなことはできない。 GNUを使えば、これは簡単に実現する。 有能な人材がいなかったとしても可能であり、しかも、 問題点を修正できないのは配布規定のせいでは断じてない。 GNUは、世界中の全ての問題ではなく、その一部のみを取り除いている。
一方、コンピュータについて何も知らないユーザには支援が必要である。 自分で容易に処理できる範疇であっても、 その方法を知らない場合に支援が必要なのである。
そのようなサービスは、単なる指導や修理サービスだけを行なっている 企業が請け負うことができるだろう。 ユーザがお金を支払ってもサービス付きの製品を購入するほうが良いと 考えているのであれば、無料の製品に対するサービスにも喜んでお金を払うだろう。 サービス会社は、品質と価格の面で競争することになり、 ユーザは特定のサービス会社にこだわる必要がなくなる。 一方、サービスを必要としない我々等などであれば、 サービスへの対価を支払わなくても、プログラムを使うことができる。
『広告なしでは多くの人々に知らせることは無理であり、 その費用だけでもプログラムに料金を課すべきである。』『誰もが無料で入手できるようなプログラムを宣伝しても仕方がない。』
GNU等の情報を、多くのコンピュータ・ユーザに知らせられるような 無料またはきわめて安価な広告媒体がいろいろとある。 しかし、宣伝すれば、より多くのマイクロコンピュータ・ユーザに 知らせられるというのも事実かもしれない。 本当にそうであれば、GNUを無料で複写したり配布するサービスを 宣伝するビジネスは、その広告費用にかかった以上の成功をおさめるはずである。 この方法は、宣伝によって利益を得るユーザだけが広告料を払うものである。
他方では、多くの人々が友人からGNUを入手するので、 上記のような企業が成功しないというのであれば、その宣伝がGNUを広める上で、 本当に必要なものではないということである。 なぜ自由市場擁護者は、 このことを自由市場に決めさせたくないのだろうか?(70)
『私の会社は、競争の頂点に立つために独占的なオペレーティング・ システムが必要である。』
GNUにより、オペレーティング・システム・ソフトウェアは競争の世界から 取り除かれることになるだろう。 このオペレーティング・システム・ソフトウェアの分野では、 あなたは競争の頂点に立つことはできないし、競争相手もそうなることはできない。 この分野では、あなたとその競争相手は互いに利益を受け、 競い合うのは他の分野でということになる。 あなたのビジネスがオペレーティング・システムの販売であった場合には、 GNUは好ましくなく、あなたにとって厳しい状況になるだろう。 あるいは他の種類のビジネスならば、オペレーティング・システムの販売といった 高価なビジネスにあなたが強要されないよう、GNUがあなたを救うことができる。
私は、多くのメーカやユーザからの寄付に支えられてGNUが発展し、 そのような人々の個々のコストが軽減されていくのを この目で見たいと思う。(71)
『プログラマは自分の創造性に対して報酬を受けるに値しないのではないか?』
何事にも報酬があるとしたら、それは社会的貢献である。 創造性は社会的貢献となりうるが、 それは社会がその成果を自由に使用できる場合に限られる。 もしプログラマが、革新的なプログラムを作成したことで報酬を得るとしたら、 そのようなプログラムの利用を制限した場合にも同じ理由で罰に値する。
『プログラマは、自分の創造性に対して報酬を要求してはいけないのではないか?』
仕事に対して支払いを求めたり、自分の収入を最大に増やすよう求めることは、 破壊的な手段を使わない限り、何ら悪いことではない。 しかし、今日のソフトウェア分野で習慣となっている手段は、 破壊的行為に基づいている。
プログラムの使用を制限してプログラムのユーザからお金をとることは、 その制限のせいで、使用できるプログラムの種類や方法が減ってしまうので、 破壊的行為となる。 これは、人類がプログラムから得られる富の量を減らしてしまう。 故意に制限すると決定したときには、 意図的な破壊という有害な結果をもたらすだろう。
善良な市民がそのような破壊的手段を用いないのは、 そうしないことこそが裕福であると思っているからである。 もし誰もが破壊的手段を用いたとしたら、 我々は互いの破壊行為によってさらに貧しくなっていくばかりであろう。 これがカント哲学の倫理、または黄金律である。 皆が情報を隠し持った結果として生じる結末を私は好まないので、 そうすることは悪いことであると考えざるを得ない。 明確に言えば、自分の創造性が報われたいという欲望は、 その創造性の全部または一部を、一般の世の中から奪う言い訳にはならない。
『プログラマは飢えてしまわないだろうか?』
プログラマに強要できる者はいないということは言える。 我々の大半は、街に立ってしかめ面をしてもどうにもお金を稼ぐことはできない。 しかし、結果的には、我々がしかめ面をしながらひもじい思いをしつつ街に立って 一生を過ごすことになったとしても、それを厳しく非難されはしない。 我々には他にすることがあるからである。
しかし、これは、質問者の暗黙の仮定、つまり、ソフトウェアの所有権がなければ、 プログラマは一銭たりとも収入を得ることはできないという仮定を 受け入れているので間違った答えである。 おそらく、一か八かということなのだろう。
プログラマが飢えてしまわない本当の理由は、単に今ほどの額ではないだけであって、 プログラミングに対しては支払われる可能性が依然としてあるからである。
複写を制限することだけが、ソフトウェアにおけるビジネスの唯一の基礎ではない。 それが最も多くのお金をもたらすので、一番の共通基盤になっているだけである。 もし顧客のほうから複写の制限を禁じたり拒絶すれば、 ソフトウェア・ビジネスの組織の土台は、 今ではあまり多くは使用されていないような別の種類ものへと変わるだろう。
おそらく、新しい基盤のもとではプログラミングは 現在と同じくらいの利益にしかならないだろう。 しかし、それだからといって変化に反対する理由にはならない。 販売員が今と同じ給料を得ることが不公平だというのではない。 プログラマも同様に今と同じ給料を得たとしても、不公平にはならないだろう。 (実際、プログラマは給料以上のことを行なうだろうから。)
『人々には自分の創造性がどのように使用されるのかを 制御する権利があるのではないか?』
『自分のアイデアの使用を制御すること』は実は、他人の人生を制御し、 一般にその人の人生をもっと困難にするために用いられる性質のものである。
(弁護士のように)知的所有権の問題を勉強した人によれば、 知的所有物には本来の権利もないと言っている。 政府が認めている推定上の知的所有権の類は、 特定の目的のための特定の法律によって作り出されたものである。
例えば、特許制度は、発明家がその発明の細部を公開するよう 促進するために制定された。 その目的は、発明家を保護するというよりは、社会を保護することにあった。 当時、17年という特許の保護期間は、技術水準の進歩に比べて短いものであった。 特許は製造業者の間だけの問題なので、ライセンス契約のコストや手間が 製品作りの準備に比べれば少ないような人々にとっての特許とは、 さほどの損害にはならない場合が多い。 特許製品を使用するたいていの個人を妨害してはいない。
著作権という概念は、著者がノンフィクション作品の中に他の著者から長々と 頻繁に真似ていた古代には存在しなかった。 この習慣は役に立っていたし、 現在でも多くの著者の作品に部分的に生き続けている習慣である。 著作権制度は、著述業を明白に促進するために作られた。 その制度が作られた分野として本があるが、 これは印刷するだけで安く複製できるのでほとんど損害を与えることはなく、 何よりも本を読む個人を妨害することはなかった。
全ての知的所有権は、社会が認めるライセンスにすぎない。 というのは、良きにつけ悪しきにつけ、 知的所有権を認めることにより社会全体が利益を得ると考えられたからである。 しかし、どのような特殊な状況においても、 我々には問直さなければならないことがある。 「我々はそのようなライセンスを認めることで本当により裕福になるのか?」、 「我々はどのような種類の行為を人に許可しているというだろうか?」と。
今日のプログラム事情は、100年前の書物のときとは全く異なっている。 例えば、プログラムを複写するときの最も簡単な方法は、 隣の人からさらに隣の人へと順にまわしていくという事実や、 プログラムにはソース・コードとオブジェクト・コードがあって それぞれ別のものであるという事実、プログラムは読んだり楽しむものではなく 使用されるものであるという事実が混ぜ合わされて、著作権を押し通す人が、 物質的にも精神的にも社会全体に害を及ぼしている状況を作り出しているのである。 つまり、法的に著作権の強要が可能かどうかにかかわらず、 人はそのようなことをすべきではないということである。
『競争が物事をより良くしていく。』
競争の典型はレースである。 勝者には報酬が与えられるので、誰もがもっと速く走ろうと努力する。 資本主義が本当にこの方法で機能すればよいが、資本主義の擁護者は、 この方法で常に機能することを前提としている点が間違っている。 例えば、なぜ報酬が与えられるのかを走者が忘れてしまい、 手段を選ばず勝つことのみに執着したとすれば、 他の走者を攻撃するといった他の作戦をとるかもしれない。 走者達が真っ先に殴り合いをしてしまえば、皆のゴールインが遅れてしまうだろう。
ソフトウェアの占有と秘密は、真っ先に殴り合う走者と道義的には同じである。 悲しいことに、我々の唯一の審判でさえ、殴り合いに反対していないように見える。 ただ走者を(『10ヤード走るごとに1発殴ってもよい』というふうにして) 規制するだけである。 審判は本来、そのような走者達の中に分け入って、 暴力を働こうとした走者を罰してしかるべきである。
『金銭的な刺激がなくなっては誰もプログラミングなどしないのではないか?』
実際には、多くの人々が金銭的刺激が皆無であってもプログラムを書いているだろう。 プログラミングには、一部の人にとってはたまらないほどの魅力があり、 そういう人こそプログラミングに最も向いている。 音楽で生計を立てる望みがないからといって、プロの音楽家がいなくなることはない。
しかし、この疑問は実際、よく提起されるのだが、現実に即してはいない。 プログラマへの支払いは少なくなっても、無くなることはない。 したがって、正しい質問は、 『金銭的な魅力が減っても人はプログラムを書くか?』となる。 私の経験がそれを語っている。
10年以上もの間、世界中の多くの最優秀プログラマが、 よそでならもっと収入を得られたはずにも関わらず、AIラボで働いてきた。 彼らは、金銭ではない報酬、例えば、名声や感謝といったものを得てきた。 そして、創造は楽しくもあり、それ自体が自分への報償であった。
やがて、彼らの大半は、多くの給料をもらいながら引き続き興味ある 同じ仕事ができる機会を与えられて去っていった。
この事実は、人は金持ちになること以外の理由でもプログラムを 書くということを示している。 しかし、より多くのお金を得る機会があれば、人はそれを期待し求めもするだろう。 給料が少ない組織は、多いところと競争すれば劣勢にはなるが、 給料の多い組織が息詰まっても、少ないほうまで悪くなるわけではない。
『我々は絶望的になってプログラマを必要としているのではないか。 我々の隣人を助けるのをやめるようプログラマが我々に要求すれば、 我々はそれに従わざるを得ない。』
あなたは、そういった要求に従うほど決して絶望的ではない。 忘れないでいただきたい。 そのような要求に従わなければ数百万ドルの価値となるが、 従えば1セントもの賛辞には値しないのである!
『プログラマは何とかして生計を立てなくてはならない。』
短い目で見ればこれは当てはまる。 だが、プログラマが、プログラムの使用権を売らずに生計を立てていける方法は いくらでもある。 この方法は、他に生計を立てる手立てがないからではなく、 プログラマやビジネスマンに多額のお金をもたらすので、今では慣習的となっている。 他の方法を見つけようと思えば簡単に見つかる。 その例をいくつか示しておく。
新しいコンピュータを導入している製造業者は、 新しいハードウェアにオペレーティング・システムを 移植する作業に対して支払うだろう。
プログラミングに関する教育や指導、保守といったサービスを ビジネスとする場合にもプログラマを雇うことができるだろう。
新しいアイデアを持った人は、プログラムをフリーウェアとして配布し、 それに満足したユーザに寄付を求めたり、簡単な指導サービスを ビジネスにすることができるだろう。 私は、この方法を既に実践して成功した人々を知っている。
似たような要求があるユーザ同士は、ユーザ・グループを組織し、会費を払う。 グループでは、ソフトウェア業者と契約して、 メンバーが使いたいプログラムを作成してもらう。
あらゆる種類の開発が、以下に示す「ソフトウェア税」で積み立てることができる。
コンピュータを買う人は誰でも、ソフトウェア税として、 その価格のxパーセントを支払うようにする。 政府は、これを、ソフトウェア開発のためにNSF ([訳注]米国科学財団、National Science Foundation)のような機関に与える。ただし、コンピュータの購入者がソフトウェア開発に寄付する場合には、 相当額の税金控除となる。 自分で選んだプロジェクトへ寄付することができる。 ほとんどは、プロジェクトの成果を利用したいような所を選ぶだろう。 本来支払うべき税金の合計を上限として、寄付金の額に応じて控除することができる。
全体の税率は、課税額に応じて重み付けをし、納税者の投票によって決定可能とする。
その結果、
- コンピュータを使用するコミュニティはソフトウェア開発を支援する。
- そのコミュニティは、どの程度のサポートが必要なのかを決定する。
- 自分達の負担したものがどのプロジェクトに費されるかに関心のあるユーザは、 自分で([訳注]立ち上げて欲しい)プロジェクトを選ぶことができる。
長い目で見た場合には、プログラムをフリーにすることは、 欠乏の無い世界への第一歩であり、 そこでは誰も生計を立てるためだけにあくせく働く必要はないだろう。 人々は、週に10時間の課せられた仕事、例えば、法律の制定や、家族との相談、 ロボットの修理、小惑星の試掘といった必要な仕事をこなしたあとは、 プログラミングといった楽しめる活動に自由に専念することになるだろう。 もはやプログラミングで生計を立てる必要はなくなる。
我々は既に、社会全体が実質的生産のためにしなければならない作業量を 大幅に減らしてきたが、そのうちのほんのわずかが労働者の娯楽に 変わっただけである。 というのは、生産活動に伴い多くの非生産活動が必要とされるからである。 その主な原因は、官僚主義と競争に対する差の無い骨折りである。 フリー・ソフトウェアは、ソフトウェア生産の分野でこれらの乱費流出を 大幅に減らすだろう。 生産における技術的利得が我々にとっての労働の軽減になるよう、 我々はこれを行なっていかなければならないのである。
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